君華と子晟の逃避行に亡き母を思う

第50話で、子晟の口から孤城の真実が語られましたが、私はこの時の君華と子晟の孤城後の逃避行について、感慨深いものがあったので、私の母の話をここに書き留めておきたいと思います。

 

私の亡き母はこの君華と似た経験をしていて、その時の経験を誰にも言えず、十何年後に初めて家族に打ち明けた話です。

 

終戦当時、私の母は内モンゴルのコウワと言うところで小学校の教員をしておりました。まだ、二十歳そこそこです。

最初は郷里で女学校を卒業して小学校の教員をしていましたが、すぐに軍事訓練や工場での軍事物資作りに行かされるようになり、そんなことなら大陸へ行けば高い給料をもらえて、広い世界も見れると、ほんの軽い気持ちで外地教員に応募したのです。

大連では伯父夫婦が薬屋を手広く商っており、母は観光気分でしかも嫁入りに自分の財産も作れるしと。日本の何倍もの給料を貰えたのです。

母の実家は裕福だったので地方の議員なども親類には多く、祖父は大政翼賛会の会長もしていて、八紘一宇の精神を母も信じていたこともあります。

母自身も、アジアが一丸となって欧米の列強の侵略に立ち向かうのだという気概を持った、軍国少女でもありました。

 

最初の一年は北京大使館でのパーティーに出たり、夏休みには万里の長城に行ったり、ある時はラクダに乗ってゴビ砂漠の仏塔へ行ったりで、本当に楽しかったようでした。

 

ところが戦況も悪化して、保護者の伯父は徴兵され、伯母は癌で倒れてしまいます。

そして終戦間際に伯母は亡くなったのですが、その死に際に、伯母の子供三人をまだ二十歳前の娘だった母に託したのでした。

一番上から、7歳、3歳、乳飲児でした。

必ず、日本に連れて帰って!と。

 

やがて終戦になり、母は従姉妹に当たるその三人の子供を連れて、内モンゴルから北京まで歩いて逃避行をすることになりました。

 

真夏でしたが、子供達に着れるだけの服を着せ、一番上にはオーバーを。毛布を背負わせ、自分も食べ物に変えれそうな物を背負い赤ん坊を前に、おんぶヒモでくくりつけ、二人の子供の手を引いて日本人の引揚者の集団と共に、中国大陸の西の端から東の端の北京まで歩いたのです。

幸いな事に、日本軍の師団がしんがりを務めてくれて、ソ連軍と戦いながら逃げたので

強姦や殺害されることも無く、無事に北京に着くことが出来たのでした。

しかし、その途中で産まれたばかりの赤ん坊は病気で亡くなってしまいました。伯母は癌だったので、産んだ赤ちゃんもそもそも健康でも丈夫でも無かったのです。

若くて未婚でまだ処女だったので、どう見ても自分の子供では無いのがわかるので、赤ん坊のために乳を貰いに行くと、

中国人が可哀想にと、皆とても親切にしてくれて、あんたの子じゃ無いだろう、育ててあげると何人もから言われたそうですが、絶対に日本に連れて帰ると言って断ったそうです。

でも、赤ちゃんが死んでしまって、赤ちゃんだけでも渡せば生きていたかもと、悔やんで一生の悔いになってしまったのでした。

 

ソビエトが飛行機から銃撃してくる中を逃げ惑いながら山に身を隠したり迂回したりしたので、出発した時は夏でしたが、北京に着いた時は真冬の正月でした。

裁縫が上手かったので、シーツを裁断して下着を縫ったり、毛布でオーバーを縫ったりして食べ物に変え、どうにか二人の子供達の食べ物も手に入れて日本に連れて帰ることが出来たのでした。

 

でも、親戚の伯父の家に二人の子供を連れて行くと、赤ん坊を死なせたと詰られ、二度とうちの敷居は跨ぐなと絶縁されたのです。

 

多くの引揚者が子供達を中国に置いて帰った事は後にドラマにもなり、その悲劇は日本中の人が知ることになりましたが、当時の人々と認識はその程度でした。

自分の子では無いのに食うものも食わず、二人も連れて帰った母には何の感謝もなく、ただ怒りを投げつけて絶縁を言い渡しただけでした。

 

母はあまりに辛く悲しかったので、心の奥底に封印して誰にも話せなかった事です。

今、思い出したのですが、子供の頃、風邪を引いて熱を出すと首元に本物の大きなラクダの毛皮のショールを掛けてくれていました。これが一番暖かいと。

あれはきっと中国から持って帰って来た物です。でも、一言も引き上げの事を言わなかったのでどう言う物か私は知らずにいました。

きっと真冬に北京の凍える空の下、子供達を抱きながら三人でくるまったショールだったのでしょう。

あのショールを見るたびに辛い記憶が蘇ったのでしょうが、当時の高価な物はもうそれしか残ってないし、自分の生きた証でもあるので捨てられずずっと持っていたのでしょう。

でも子供だった私はかように母が引き上げ者であった事も知らずにいました。

 

ところが、その封印が解かれる日がきたのでした。

 

それは、私が中学生になった頃でした。

ある日、若い女の人が母を訪ねて来て、

「私は〇〇さん(私の母の名前)に助けられて日本に連れて帰ってもらった従姉妹です。

私はあの時の長女で、今度、嫁に行くことになり、父親から実はお前がこうして無事に幸せな結婚ができるのも、従姉妹の〇〇さんのおかげだときいたので、御礼に来ました」と。

 

もう、後は二人で抱き合って涙、涙でした。

 

何のことか、私も父も兄もわからず、後でやっと話を聞いて分かった次第です。

母の伯父も年月が経って、母の苦労やどうしようもなかった中、できるだけのことをしてくれた事に気がついたようでした。

引き上げの時に守ってくれる日本軍もいず、道半ばで亡くなった日本人も数多く居ました。

そういう方に比べれば母は運が良かったとも言えますが、年老いても、あの赤ん坊を凍った中国の土を掘って埋めたときが人生で一番辛かったと。

ずっと悔やんでいました。

 

私が二十歳の成人式を迎えた時、

同じ歳には

母は命懸けで二人の子供を連れて逃げ惑いながら北京を目指してたのだな、

母には一生敵わないなと思いました。

 

そして、改めて、「産んでくれて、育ててくれてありがとう」と感謝の言葉を母に送ったのでした。